书城哲学《论语》与近代日本
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第32章 附录二『論語物語』—『論語』を巡る日本の近代文学創作(2)

『凡人道』は下村湖人の処女作で、彼が50才になった1934年に初めて出版された。この作品において下村湖人は平凡人としての非凡な使命を強調し、彼が考えた「平凡の道」を必死に宣揚した。書名を『凡人道』に決めた理由は、如何に平凡な日常生活の経営から道への追求を実現すべきかを普通の民に教えようとしているからである。彼は辞世直前の絶命詩において「大いなる道といふもの世にありと思ふこころにはいまだも消えず」と書いたが、彼にとっては「平凡の道」でも「大いなる道」でも、全て人間最高の「道」に対する追求であり、聖賢でなく、聖賢になりそうもない我輩は決して希望と努力を棄ててはならない。『凡人道』に示された「道」を求める熱心さは、その後で創作された『論語物語』の中で再度現わされた。

『論語物語』は、下村湖人の心血を注いだ作品として、彼が54歳前後の真っ盛りの時期に完成した。彼が言うように、『論語物語』は孔子の『論語』ではなく、湖人の『論語』である。[11]決して『論語』を冒涜するものではないと堅信した彼は『論語物語』の序文に次のような告白をした。

この物語において、孔子の門人たちは二千数百年前の中国人としてよりも、われわれの周囲にざらに見いだしうるふつうの人間として描かれている。そのために、史上の人物としての彼らの性格は、ひどくゆがめられ、傷つけられていることであろう。この点、私は過去の求道者たちに対して、深く深くおわびをしなければならない。[12]

下村湖人にとっては、『論語』は「蒼天の本」、「大地の本」である。孔子はせっせと休まずに大地を歩みながら「宇宙の語」を述べたが、その論説は神秘でも奇跡でもない。孔子は大地の音声で宇宙の音声を伝播したと彼が思った。だから下村湖人が孔子に対する最も基本的な認識は、孔子が中国の大地を歩み、「天道への追求」を着実に実践した「求道者」であることだ。この認識から我々は、下村湖人が『凡人道』で宣揚した「平凡道を非凡に歩め」という「人生の大道」をもう一度感じさせられた。下村湖人の意識では、孔子の言葉はこのような「道」であり、孔子が孜々と追求する「天」は実在の究極の所である。そして、下村湖人は創作者として、その柔軟だが決して動揺しない創作理念を示した。つまり歴史を超え、時間と空間を超えて心をもって『論語』を感じ、心と心の融合で孔子の世界に進入することである。このような信念と切望を抱えて、彼は身近に受けたように『論語』を吟味し、精巧な構想と斬新な解釈で『論語』を歴史から離脱させ、現実の世界に生きるようなものにした。

上述の理念に基づいて下村湖人は『論語物語』の創作を始めた。彼は『論語』の492回から130回を抽出し、その中の語句を中心とし、他の適切だと思われる語句を引用して物語を展開した。『論語物語』の全28話の間に、内容的関連が少なく、排列にも特に決まりがない。どの話も独立の物語として読める。この28話の物語を通して、下村湖人は孔子と弟子たちの群像作りを果たし、人物の身に反射された人性の輝きを掲示した。勿論、その中に彼自身の孔子に対する理解が多く含まれていた。

1.孔子——平凡又は非凡な求道者

『凡人道』においては、下村湖人は「凡人には凡人としての尊い使命がある」[13]ということを特に強調した。彼の作品において、孔子は平凡又は非凡な求道者に描写され、着実に身をもって先輩聖賢の道を追求し、政に関して諸侯の訴求と大きく離れてはいるが、それが理想への探求を阻むことができなかったというような孔子であった。下村湖人は孔子の泰山登山をさせるし、泰山頂上からの眺望を借りて孔子の思慮、苦悶そして信念を天に白状させた。

孔子は、泰山の頂に立って,降り注ぐ光の中に、黙然として遠くを見つめている。……泰山は、中国にとっても、彼自身にとっても聖なる山である。彼は、このごろ、この聖なる山に登りたい衝動に、強くかられていた。それは、書斎における彼の労作に倦んだからではない.むしろ古聖の道の究明は、彼自身泰山の頂に立つことによって、真の完成が見られると信じたからである。今日彼は、やっとその願いをはたした。彼の目は、耳は、そして心は、無限の過去と、永遠の将来との間に,今や寂然として澄んでいるのである。[14]

中国の大地に立ち、弛まぬ追求を続ける孔子は、凡人としての自己反省を一度も忘れたことがない。これは下村湖人が自分の心で理解した孔子の内心世界である。彼が孔子と肩を並べて泰山に臨んだ時、「孔子は無数の不遇を経歴したからこそ、このように泰山と心が通じ合ったのだろう」と、孔子に対する理解を深めた。

孔子が如何にして平素の平凡な思考を通してその非凡な精神境界を表現しているかについて、下村湖人は作品の中で詳しく描写した。例えば『志を言う』では、ある日、孔子は颜渊、子路と人生の話をした。子路はもし自分が出世できたら、友達と一緒に馬車に乗り、毛皮の衣装を着ると得意げに話したが、颜渊は「为善不自矜」、苦労を厭わず、自分のやるべきことを真面目にやると平静に話した。そして子路に問い詰められて孔子は、年寄りの人は憂い無しに暮らさせ、誠意を持って友人と付合い、若者に愛護を加える、自分の望みはこれだけだと答えた。これは『論語·公冶長篇』から取材して作られた話であることは言うまでもないが、下村湖人は原文と対照して物語の筋を描写し、そして次のことを書いた。

この言葉を聞いて,子路は、そのあまりに平凡なのに、きょとんとした。そし

て、それに比べると、自分のいったこともまんざらではないぞ、と思った。これに反して、颜渊のしずかであった顔は、うすく紅潮してきた。彼は、これまで幾度も、今度こそは孔子の境地に追いつくことができたぞ、と思った。……先生は,ただ老者と、朋友と、年少者とのことだけを考えていられる。それらを基準にして、自分を規制していこうとされるのが先生の道だ。[15]

『論語·公冶長篇》から『論語物語·志を言う』に、下村湖人は大量な再創作を加えた。子路の得意と自負、颜渊の平静と篤実、そして孔子の両弟子に対する評判、つまり颜渊に対する賞賛と子路に対する憐れみを通して、下村湖人は彼自身の孔子道徳への理解を表明した。つまり老を尊敬し幼を愛護すること、誠意をもって友人を持て成すことであり、それこそが聖人孔子が日常生活で実践し続けた「非凡の道」であると下村湖人が思った。彼は『凡人道』においてこ次のような認識を解明した。「すべての人間に、人間としての務を果すために必要な力を、生まれながらに与えてくれていますので、それを丹念に伸ばす工夫をすれば、それでよいのであります。天が与えてくれた力とは何か、というと、それにも色々ありましょうが、その最も大切なものは、恥じる心と、愛する心と、敬う心の三つであります。人間も、恥、愛、敬の三つの心が正しく伸びるにつれて、立派になっていくものであります」。[16]『論語物語』の孔子はこのような「人道」と「天道」の間を奔走する求道者である。

2.孔子——謙虚で礼儀正しく、せっせと学問に励む実践家

下村湖人の作品においては、孔子は謙遜で謹慎な実践家でもある。これは下村湖人の内心にある孔子への深い崇敬による判断である。『大廟に入れて』、『孝を問う』、、『宰予の昼寝』、『異聞を探る』などの各話において、下村湖人は読者に敬虔に学問に励む実践家である孔子の姿を示した。

『大廟に入れて』を例としてみよう。下村湖人が設計した孔子の人生の重要な一幕として、孔子は大廟で行われた先祖祭り儀式の司会者に推薦された。元々『論語·八佾篇』の記載から由来した物事だが、下村湖人はそれを基礎に極力な渲染を尽くした。

いよいよ祭典の準備が始まって、孔子もはじめて大廟に入ることになったが、その日は、彼に好意をもつ者も、持たない者も、たえず彼に視線を注いで、その一挙一動を見守っていた。

ところで、彼らの驚いたことには、孔子はまず祭官たちに、祭器の名称や、その用途をたずねた。そして、一日じゅう、それからそれへと、その取り扱い方や、儀式の場合の坐作進退のごまごましたことなどを、根掘り葉ほりたずねるのであった。

……孔子の姿が見えないところでは、あちらでも、こちらでも、そうした失望 やら、嘲笑やら、憤慨やらの声がきこえた。孔子は、それを知ってか、知らないでか、ひととおりの質問を終わると、みんなにていねいにあいさつをして、その日はいったん退出した。[17]

話がここまで来てまだ終わっていなかった。これらの不審と非難を聞いてで最も不安を感じたのは孔子を推薦した人であった。彼は孔子の能力を一度も測っておらず、ただ世の評判や孔子の門弟の話を信用しただけで孔子を推薦したから、大廟で皆の議論を聞いて彼は慌てて馴染みの子路を尋ねた。彼の話を聞いて子路も大きく戸惑い、二人は孔子の家に狂奔し、そして子路は孔子に質問した。

「ぼくは、先生のその流儀が、どうも腑に落ちないのです。こんな時こそ、先生は堂々と、ご自分のお力を示しになるべきではありませんか。だのに、わざわざ、田舎者のだの、青二才だのといわれるようなことを、どうしてなさるのです」

「私の力を示すというと?」

孔子は顔色一つ動かさないでいった」

「むろん、先生の学問のお力です」

「学問というと、何の学問かな?」

「それは今度の場合は礼でしょう」

「礼なら、今日ほど私の全心を打ち込んだところを、みなさんに見ていただいたことはない」

「すると、先生の方からいろいろおたずねになったというのは、嘘なんですか」

「嘘ではない。なにもかもみなさんに教えていただいたのだ」

「なんだか、さっぱりわけがわかりませんね」

「子路、お前は、いったい、礼を何だと心得ている」

「それは先生にふだん教えていただいているとおり……」

「坐作進退の作法だというのか」

「そうだと思います。ちがいましょうか」

「むろんそれも礼だ.それが法にかなわなくては礼にならぬ。しかし礼の精神は?」

「先生に承ったところによりますと、敬しむことにあります」

「そうだ。で、お前は、今日私がその敬しみを忘れていた、とでもいうのかね」

子路の舌は、急に化石したように、硬ばってしまった。孔子はつつけていった。

「かりそめにも大廟に奉仕するからには、敬しんだ上にも敬しまなくてはなら

ない。私は、先輩に対する敬意を欠きたくなかったし、それに従来の仕来たりについて、一応のおたずねもしてみたかったのだ。それをお前までが問題にしようとは夢にも思わなかった。しかし……」と、彼は一、二秒ほど目をとじたあとで、

「私にも十分反省の余地があるようだ。元来、礼は、敬しみに始まって、調和に終わらなければならない。しかるに、今日私がみなさんにおたずねした結果、皆さんのお気持ちを害したとすると、私のどこかに、礼にかなわないと転がったのかもしれない。この点については、私もなおとくと考えてみたいと思っている」[18]